一年365日 京日和 Ⅱ

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カテゴリ:京・巡礼( 4 )

京・巡礼 三千院 その4  「往生極楽院」

三千院の本堂になっている往生極楽院は、昔は「極楽院」と呼ばれ、ひとつの独立したお堂だったのですが、
三千院が大原に移ってきたときに、その寺域に取り込まれてしまいました。
「往生極楽院」と呼ばれるようになったのは、明治18年になってからのことです。
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本堂は宸殿などに比べれば小さく、屋根は杮葺(こけらぶき)で、板戸に板壁、明り障子。
立派な石垣で囲まれてる三千院の外観からは、想像出来ないような地味な印象です。
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往生極楽院は986年、恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が、両親の菩提を弔うために
姉の安養尼(あんように)と共に建立したとされてきました。
源信は延暦寺で修行を積んだ僧でしたが、延暦寺にあっても皇族や貴族でなければ高僧にはなれなず、
堕落した山に見切りをつけ山下を決めたひとりでした。
『身分の上下を問わず、全ての人々と手をたずさえて浄土へ往生しましょう』と説き、
多くの僧に影響を与えた人でした。
源信の母は厳しい人で、出世していく息子を戒め、ひたすら修行に打ち込み聖人になることだけを
望んだ人でしたので、そういう説が生まれたのかもしれません。
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しかし、その後わかったことですが、
藤原時代末期、高松中納言実衡(さねひら)の未亡人、真如尼(しんにょうに)が建てた
常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)だとの説が有力になりました。
本堂に祀ってある勢至菩薩の胎内から墨書がみつかり、1148年の像造であるとわかったからです。
常行三昧堂というのは、仏像、仏壇の周りを右回りに歩きながら、
心に阿弥陀仏を念じ、口に念仏を唱え入るお堂のことです。
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堂内の天上は舟底を立てたような形で、狭い内に阿弥陀三尊を納める工夫がされています。
阿弥陀如来の脇侍(きょうじ)、観世音菩薩は信者を乗せる蓮台を持ち、勢至菩薩は合掌し、
両脇侍とも少し前かがみでひざまずいた姿勢で、今まさに浄土へと旅立とうとしている瞬間のようです。
現在、絵の具の剥離が激しく、堂内に描かれた極楽浄土の様子を知ることは困難ですが、
極彩色で描かれた天女や菩薩に想いをめぐらすことも、また楽しみのひとつだと思います。
三千院の出口付近に「円融蔵」という展示施設があって、そこで往生極楽院の内部が復元されています。
一千年前の極楽往生を願う人々の切なる願いが伝わってくる気がします。
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by machizuki09 | 2009-02-20 21:22 | 京・巡礼

京・巡礼 三千院 その3 「歴史」

きょうは三千院の歴史を。
三千院ほど名前も場所も転々としたお寺はめずらしく、
資料を読んでると、煩雑すぎて眠気に襲われるほどです。

下手なまとめですが読んでみて下さい。
眠気に襲われたらさっさと寝て下さいね。

三千院の歴史は古く、今をさかのぼることざっと1200年。
西暦800年ごろ、最澄が比叡山の東塔南谷(東塔は根本中堂を中心とするところ)に、
小さなお堂を建てたことに始まります。

西暦860年、承雲和尚が最澄自作の薬師如来を本尊として円融房(えんゆうぼう)とし、
東坂本の梶井(現在の滋賀県大津市坂本)に里坊を作りました。
里坊というのは、山寺の僧が人里に作った僧坊のことです。

1086年には、円融房から円徳院と、寺号が変わります。

そして1118年、皇族として初めて最雲法親王が寺に入り、梶井門跡寺院と寺号が変わります。
(梶井の名は地名から)
門跡寺院というのは、皇族や摂家が住職となる格式の高いお寺のことです。

当時、天皇の皇子であっても、跡継ぎの皇子を除いては、衣食にも困ることがありました。
そこで皇子らを(昔は后妃も多かったので、皇子もたくさん生まれた)僧侶にして生活を守ったのです。
(また第一皇子に万が一のことがあっても、僧から皇族に呼び戻すことも可能でした。還俗ですね)

それから26年後、最雲法親王は天台宗座主(天台宗のトップ)につきます。
これより700年間にわたって、梶井門跡寺院は皇族が住職を勤めることになります。

最雲法親王が梶井に入寺したころ、大原では良忍が来迎院を建立し
天台声明の中興の祖と仰がれていました。
良忍を敬い、来迎院を中心とした上寺と、勝林院を中心とした下寺に分かれ、
50ヶ寺ほどの塔頭が並び、念仏声明の聖地となっていました。
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来迎院



しかし良忍による融通念仏は…
--ひとりの唱える念仏がすべての人の極楽往生の助けになり、
すべての人が唱える念仏もまた、一人の極楽往生の助けになる--

伝統的な念仏を乱し、色々な問題を生むことになったのです。

そこで天台宗座主(てんだいしゅうざす)になった最雲法親王は、大原に事務や雑務を扱う政所を置いて
それらの寺院を統括することにします。
最雲法親王の住まいは滋賀県坂本の梶井御所で、大原は別院という扱いでした。

しかし1232年、梶井御所は火事で焼失してしまいます。
以後、京都市中を転々とし、いったんは北区紫野あたりに落ち着くのですが、
1467年の応仁の乱でまたしても焼失。
そこで大原の政所を仮御殿として移り住みます。

1698年、将軍綱吉が今の京都府立病院あたりに2万坪の土地を献じると、梶井御所は復活します。
すると大原の政所は、また修行の地へと戻っていったのです。

しかし170年後の明治元年、政府が出した廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のため、
昌仁法親王が還俗することになり、梶井御所は廃され、仏具類は大原に移されることになりました。
それにより大原政所は梶井門跡の本殿となり、寺号を三千院として現在に至っているのです。
(円融院の本堂が三千院という名だった)

 ★廃仏毀釈
  明治政府の「神仏分離令」によって引き起こされた仏教施設などの破壊。
  寺院、僧侶から収奪の限りをつくされていた民衆も加わり、
  仏像、仏画、堂塔、伽藍、経典などが焼却、破壊された。


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元々御所があった梶井の名が残る三千院の碑




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三千院 御殿門
まるで城壁のようですね。政所としてのなごりでしょうか

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by machizuki09 | 2009-02-16 15:56 | 京・巡礼

京・巡礼 三千院 その2 「声明」

声明(しょうみょう)というのをご存知でしょうか。
キリスト教でいうグレゴリオ聖歌に例えられています。
聖堂に聖歌が似合うように、仏殿にはこの声明がとても似合う気がします。
三千院から少し北へ行くと勝林院があって、テープですが声明を聞くことが出来ます。
堂内に響く声明は、とても厳かな気持ちさせてくれます。
聞きなれたお経とは違って、独特な音階で唄われます。
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天台声明の根本道場 勝林院



元々はインドにて、バラモン教の賛美歌を仏教に取り入れたのが始まりです。
そして中国の魚山(ぎょざん)という丘を散歩していた曹植(そうしょく)という人物が、
天上から響くその音に魅せられ、中国声明の元としました。
西暦835年 唐に渡っていた円仁(えんにん)が修得し、大原を魚山となずけて天台声明の聖地としたのです。
(私の説明で分かりますでしょうか? インド→中国→日本です)

その声明を集大成させたのが良忍(りょうにん)という僧でした。
三千院の南、呂川に沿って山道を500メートルほど上っていくと、「音無しの滝」に行き着きます。
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一人だとちょっと心細いくらい寂しい山道です



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呂川の流れ(音無しの滝の写真は撮り損ないました)




良忍が唱える美しい声明に、滝の音も和して音がかき消えたという話があったり、
滝の音が邪魔になるので呪文を使って水音を消したとも言われています。
「呪文は無いだろう、呪文は」と言いたくもなりますが、
延暦寺のお坊さん達は、超人的な修行をしますから、
ラリホー程度の呪文くらいは会得したかもれません(発言に責任は持てませんが)

音無しの滝から出る水は、呂川(りょせん)と律川(りつせん)に分かれます。
ちょうど三千院を北と南から挟むような形で流れています。
この呂律(りょりつ)というのは雅楽の言葉で、言葉の調子を意味するのだそうです。
そこからその音階が合わないこと、転じて舌がうまくまわらないことを
「ろれつがまわらない」と言うようになったんだそうです。
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呂川に掛かる橋
橋を渡って右に見える白壁が三千院です



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律川に掛かる橋



良忍の話をもう少し。
彼も比叡山で天台宗を学んでいましたが飽き足らず、大原で生涯を送ったひとりです。
念仏を毎日六万遍唱え、手足の指を切り燃やすという壮絶なまでの苦行を行います。
そうした良忍が説いたのが「融通念仏(ゆうずうねんぶつ)」でした。
『ひとりの唱える念仏がすべての人の極楽往生の助けになり、
 すべての人が唱える念仏もまた、一人の極楽往生の助けになる』
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by machizuki09 | 2009-02-14 13:53 | 京・巡礼

京・巡礼 三千院 その1 「大原」

最近になって京都の歴史をかじってみようと思うようになりました。
何から始めればいいのか悩みましたが、やはり神社仏閣は外せません。
私の好きな三千院から取り上げてみようと思います。

三千院には色んなお話しがあって、ちょっとやそっとでは語れないので、
少しづつ何回かに分けてみようと思います。
初めは三千院がある「大原」についてです。

大原は市内ですが、北のはずれ。
市内中心部からバスで順調に走れば50分くらい。
でも観光シーズン真っ只中だと、来たことを後悔するくらい混み合います。
山間のくねくねした細い道を行くので、流れもよくないのです。

大原は梅干に入れる赤シソが有名で、最近は小さな温泉施設も出来ています。
とてものどかな山里です。
畑の向こうの山並みが、滋賀県と接する比叡山系です。
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三千院へ通じる道は、緩やかな上り坂。
お土産物屋さんもそれなりにありますが、お漬物を扱ってるお店が大半です。
でもシーズンオフになると数えるほどしか開いてません。
嵐山や清水の参道のにぎわいとは、比べ物になりません。
それが良い意味で田舎っぽく、枯れた感じがしていいのだと思います。
観光客のにぎやかなおしゃべりがなければ、
聞こえてくるのは呂川(りょせん)という川のせせらぎくらいでしょうか。
この季節だと、シンとした寒さと静けさで、ちょっと心身が洗われるようですよ。
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では昔々の大原はどんな場所だったのでしょうか。
時は平安時代(794-1185)
その頃、比叡山延暦寺・天台宗の堕落ぶりに見切りをつけて、山を下りた僧がたくさんいました。
その一部の僧たちが大原で小さな庵を結び、仏道の修行に明け暮れたのです。
でも集まったのは僧侶だけではありませんでした。
世捨て人在り。
山里生活を楽しみたい者在り。

文徳天皇の第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)は、藤原氏の圧力で異母兄弟に皇太子の座をゆずり出家。
大原に隠れ住んだひとりです。

また「ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」と書いた「方丈記」で有名な鴨長明も大原に隠棲したひとり。
長明の父は下鴨神社の禰宜(ねぎ)という神職についていたのですが、幼いときに亡くなります。
父の跡を継ぎたいと願い出ますが叶えられず、50歳のときに出家して大原へ。
ただここも安住の地ではなかったようで、5年ほどで去っています。
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下鴨神社内にある河合社


あんまり長いと退屈でしょうから、きょうはこれまで。
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by machizuki09 | 2009-02-13 21:41 | 京・巡礼
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The key to success is starting and not stopping.わかっちゃいるけどそれがなかなか難しい…


by machizuki09
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